感じの実存

感じているものを、認識と存在の起点として扱う立場。不快だけでなく、生命の質の感覚、居心地の良さ、安心、身体感覚、情緒——これらを「主観的な雑音」として排除するのではなく、実際にそこに在るものとして起点に置く。

これは懸田自身の立場の表明であり、以下に挙げる二つの言語化から触発・展開したものである。


二つの言語化

細井久栄:「感性は実在する」

細井久栄『小さな美しい村』の中で、繰り返し「感性は実在する——形而上学ではない」という立場を表明している。「実存」という語は使わないが、以下の引用でその実在性を主張している。

「豊かさ、くつろぎは、人の感情、感性に関わるものなので、合理になじまないし機能的に位置づけるのは難しい。だからといって、これをとらえどころのないものとして形而上学的に扱うべきではない。豊かさもくつろぎも、実態のある現実のものなのだ。」 — 第2部 各論・第1章「キャンパスに求めていたもの、考えていたこと」§1「住まい」としての学校建築 > 3)なぜ学校にプライベートな空間?

「『調和感』というのは、人の持つ不思議な感性の1つである。……感性と言っても『調和感』は客観性を持つ感性だということがわかる。それは誰もが共有できるものであって、主観的な形而上学ではないのだ。」 — 第2部 各論・第2章「キャンパスツアー」§5 体育館 > 体育館のサイズと建物群の調和

現場に実際に立つことで得られる人の感性を、シミュレーションで再現することはできないのである。」 — 第2部 各論・第2章「キャンパスツアー」§1 アプローチとしての玄関道 > 現場で決めた玄関道の幅と塀の高

細井氏の論理の構造:「感性は合理・機能の次元で証明できないが、それゆえ実在しないわけではない。実態があり、客観的に共有できる」。あくまで「実在する(実態のある現実のもの)」という主張にとどまっており、存在論的な踏み込みはしていない。

由佐美加子:「あるものは、ある」

ザ・メンタルモデルの著者・由佐美加子が用いる表現。

痛み・感情・内的状態に対して「あってはならない」「なかったことにする」という態度が自己分離を深める。逆に「あるものは、ある」と認めることが、統合の起点になる。感情の善悪・正誤を評価するのでなく、まずその存在を承認する。


懸田の言語化

監修者あとがきの中で、懸田は細井の立場を通じて自らの理解を次のように書いている。

「感性が『よい』とするものは、機能的にも『よい』ことが含まれるが、その時点で、機能的・合理的に説明できない事が多い。だからといって、感性を無視してはいけないし、感性を信じて、機能性や合理性と同様に、扱わねばならない。」

また、近代合理主義が感性を排除する構造を次のように整理している。

「合理主義とは、その時点で明らかになっていることでしか判断できません。……感性では『よい』と感じていても、それを論理的・科学的に『よい』と表現できていなければ、合理主義はその存在を認めません。『論理的に説明できない』という理由だけで排除するのです。言い換えると、実際に身体が感じて『ある』ものを認めず、『ない』ことにするのです。」 — 監修者解説「感性を大事にするということ」(『小さな美しい村』

「実際に身体が感じて「ある」もの」——この表現は、由佐美加子の「あるものは、ある」と同型であり、細井の「実態のある現実のもの」に呼応する。細井の主張を監修しながら、懸田は同じ認識論的立場に至り、「感じの実存」の言語化が生まれた。


「感じるもの」の全体

感じの実存は、不快だけを扱うのではない。感じているもの全てが対象:

感じているもの対応する概念
生命の質の感覚、「これはいい」という感じchristopher-alexander mirror-of-the-self test
居心地の良さ・安心wholeness / 場の生命性
不快・痛みnegative-capability / NVCのニーズシグナル
身体感覚・痛みフィードバックagile-health-kaizen / ベアフットラン
情緒(数学・俳句において感じるもの)oka-kiyoshi 「情緒」
感応状態(場の感じ)felt-state-pattern

「感情とつながる」= 内側とつながる = 自己分離からの統合

感じの実存の立場に立つことは、実践的には 内側とつながること であり、これは自己分離からの統合プロセスそのもの。

自己分離した状態では:

  • 自分の感じているものを「感情的だ」「非合理だ」として棄却する
  • アレグザンダーの「感情を使う」ができない
  • NVCの「ニーズへのパイプライン」が閉じている
  • HAS P01「置かれた感情」の起点に立てない

「あるものは、ある」と認めることで:

  • 感じていることが起点になる(軸4: 感情を認識の道具として使う)
  • 不快の奥にある願いが見えてくる(軸6)
  • 身体の声が情報として届く(軸8)
自己分離(感じているものを切り離す)
        ↓ 逆回路
感じの実存(あるものは、ある)
        ↓
内側とつながる
        ↓
感情→ニーズ / 不快→願い / 身体→情報
        ↓
全体性の回復([[self-separation]] の統合チェーンへ接続)

他の認識論との同型

人物・領域表現
細井久栄感性は実態のある現実のもの(形而上学ではない・客観的に共有できる)
由佐美加子あるものは、ある
懸田剛身体が感じて「ある」もの——合理で説明できないからといって「ない」にはできない
christopher-alexanderfeeling を判断の根拠にする(mirror-of-the-self test)
henri-bortoft現れを真剣に受け取る(Goethean phenomenology)
oka-kiyoshi情緒こそが数学の源泉
michael-polanyifrom-to構造:感じることを通じて(through)知る
human-attunement-system P01感情がそこにあることを「置く」(消すのでも使うのでもなく)

細井氏と由佐美加子は「感性・感情は実在する(排除すべきでない)」という弁護論をしている。「感じの実存」はそこから一歩踏み込み、「感じることそのものが、認識と存在の起点たりうる」という積極的な主張として立てた表現である。

分野・文化・時代が異なるが、すべて同じ認識論的立場の表現と読める。


なぜこれが難しいか

近代的合理性は「感じ」を認識から排除してきた:

  • 「主観的だから信頼できない」
  • 「再現性・測定可能性がない」
  • 「プロらしく感情を持ち込むな」

これはscience-wholeness-tensionで整理した緊張でもある。binary-thinking-vs-wholenessの「生きている/死んでいる」の二値論と同じ構造——感じは「あるかないか」ではなく「どれくらい生きているか」の質の問題として扱う必要があるが、近代的枠組みではそれができない。

**細井氏の戦略「同じ土俵で戦わない」**はこの構造的問題への実践的応答。合理の土俵で感性を証明しようとすれば必ず負ける。細井氏は「感性は実在する」という立場を起点に、合理の次元での証明を求めずに戦略を組んだ。これを「感じの実存を起点に置く」と読むのは懸田の解釈である。


wiki内での位置づけ

このページは analysis-epistemological-axes で整理した軸4・6・8(感情の非分離 / 不快から願いへ / 心身不可分性)の共通の根を表す概念として機能する。

感じの実存(あるものは、ある)
    ├── 軸4: 感情を認識の道具として使う
    ├── 軸6: 不快に留まる → 奥の願いを発見する
    └── 軸8: 身体の声を聴く(心身不可分性)

また observer-in-wholeness との接続が深い——観測者を含めた全体性を認識するには、まず観測者自身が感じていることを実存として扱える状態にある必要がある。


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